豊臣秀吉・ひとたらしから暴虐な独裁者への道

「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」

 

「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ほととぎす」

 

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」

 

戦国の三大武将を表現する狂歌として、
あまりにも有名ですね。

 

上から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
を表現していますが、それぞれの特徴と
性格をよく言い表しています。

 

この狂歌は、幕末の頃、第九代平戸藩主
松浦静山が、随筆甲子夜話で紹介した
もののようですが、
実際に誰が書いたのかは明かではありません。

 

なお、甲子夜話は「かっしやわ」と読みます。

 

この三人の中でも、最も人好きのする性
格とされている秀吉ですが、どうも単純
に「ひとたらし」などと一言で言えるよ
うな人ではなかったようなのです。

 

秀吉の性格は、天下を取る前と、その後
では同一人物とは思えない程激変しています。

 

なぜそのようなことが起きたのか、
今回はその秀吉の謎に迫ります!

 

豊臣秀吉・織田信長のお気に入り

豊臣秀吉の出自については、
正確な記録がほとんどありません。

 

それは秀吉は農民の出で、信長や家康の
ように武家の出ではないため、記録に残
らなかったためでしょう。

 

一応、1537年(天文6年)頃の出生のようです。

 

尾張国愛智郡中村郷(今の名古屋市)の
百姓で、織田信長の父・信秀の鉄砲足軽
をしていた木下弥右衛門と、その妻・
なかとの間に生まれたととされています。

 

幼名は「日吉丸」(ひよしまる)ですが、
子供の頃から「サル」というあだ名があったそうです。

 

「サル」は信長の専売特許ではなかったのですね。

 

やがて父が亡くなり、養父とは仲が悪く、
家を追い出されてしまいます。

 

そして、松下家に使えた後、永禄元年
(1558)、小者(雑用係)として織田
信長に仕えることになりました。

 

この信長との出会いが、秀吉の一生を決定しました。

 

寒い日に信長の草履を肌で温め、信長に
気に入られたというエピソードは有名で
すが、どうもこれは事実ではないようですね。

 

その後信長は「サル、サル」と呼んで
秀吉を可愛がりましたが、かなりえこ
ひいき的なかわいがり方だったようです。

 

他の武将が失敗すると、がみがみと叱り
つけても、秀吉が同じことをしても苦笑
いするだけで、強くは叱らなかったと言われています。

 

そのあたりは、この時代の秀吉の得意技、
「人たらし」によるものなのでしょう。

 

信長は戦国きっての美男ですが、秀吉は
はっきり言って不細工そのもの、サルそ
のものであり、それが信長からみておかしかったのでしょうね。

 

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豊臣秀吉・ひとたらしの名人

やがて秀吉は信長のもとで、次第に出世
し、武将として頭角をあらわし始めます。

 

この時代の秀吉は、「木下東吉郎」と
名乗っていました。

 

人柄は明朗純朴、常に笑顔で人に接し、
人に頼まれたことは誠心誠意行い、
相手には心から尽くします。

 

これがいわゆる「人たらし」です。

 

「たらし」には女「誑し」のように、だ
ますという意味があるのですが、「人た
らし」が良い意味で使われるようになっ
たのは、秀吉の例からです。

 

そのため、秀吉の人望はいやが上にも高
くなり、信長にも大いに気に入られたわけですね。

 

戦いにおいても、無用に人命を奪うこと
は好まず、「水攻め」や「兵糧攻め」
どで相手の降伏を待つ戦法を多用しました。

 

また、降伏した相手の助命を信長に嘆願
するなど、敵将からみても秀吉になら投
降しても大丈夫と信じられていたようです。

 

信長の比叡山でも、信長の命により秀吉
はあたり一帯を封鎖していたのですが、
大魔王信長の命に反して、多数の僧を逃がしています。

 

これは温情によるというより、天台宗に
恩を売っておいた方が、自分の後々のた
めに有利になると、判断したからでしょう。

 

もちろん、無用に人命を奪うことを嫌う、
という「当時の」秀吉の考え方もあったのでしょうね。

 

これが当時の秀吉が
「見せていた」自分の性格です。

 



ところが、本能寺の変後に秀吉が天下を
取ると、その性格はガラリと変わります。

 

戦国武将でも覇権を握る前と後とで、こ
こまで正反対の性格をみせた武将は誰もいません。

 

秀吉だけなのです。

 

その豹変ぶりはなにによるものなのでしょうか?

 

豊臣秀吉・冷酷暴虐な独裁者へ

天下を取った後の秀吉は、それ以前とは
まるで別の性格をみせるようになりました。

 

天下とり以前の性格を要約すると、

  1. 人なつこく陽気
  2. 主君や同僚・友人にはよく尽くす
  3. 人の命を奪うことは好まない
  4. 人たらしの名人

というものです。

 

いずれも他人から見れば、
大変好もしいものばかりですね。

 

ところが天下とり後には、

  1. 判断能力が衰えた
  2. 行動の論理性がなくなった
  3. 冷酷残虐となった

という激変ぶりなのです。

 

その例は、

二度にわたる朝鮮出兵、

甥の秀次の切腹命令、

敵を許さず、幼児を含む家族の命を奪う、

主君だった信長への批判

などです。

 

どれも、天下を取る以前の秀吉には、
到底考えられないような、愚挙・暴挙です。

 

たとえば、大恩ある織田信長の一族に対
しても、織田信長の没後には、手のひら
を返すように、切腹、追放と冷遇しています。

 

また、股肱の臣である脇坂安治への手紙
では、大恩ある主君・織田信長を呼び捨てにしているのです。

 

その手紙では、

「私(豊臣秀吉)の意思に背く者は、
織田信長の時代のように、許される
と思い込んでいると処分するぞ。」

 

とあります。

 

豊臣秀吉の意志に背くものが、多数いた
ということは、豊臣秀吉の織田家に対す
仕打ちに不満や憤りを持っていた家臣
が多数いたということになります。

 

さらには、脇坂安治が配置換えを願い出
ると、そのようなこと、まかりならんと叱ったのです。

 

それだけならまだよいのですが、その後、
何回も何回も、1日おきくらいの頻度で、
同様の手紙を出し続けたそうです。

 

このしつこさは常軌を逸していると言わ
ざるをえませんね。

 

このような変化の理由はどういうことなのでしょうか?

 



その原因は幾つか考えられますが、
代表的なものをあげてみましょう。

 

1 天下を取る前には、そのような冷酷な
性格を隠し、陽気で人なつこいようにみせかけていた。

 

しかし天下をとったことで、そのような
見せかけをする必要がなくなったため。

 

2 なにかの病気または加齢による。

 

たとえば統合失調症、あるいは
アルツハイマーなどの認知症による、
脳機能の異常や衰えによるもの。

 

3 細菌やウイルスによる感染したため。

 

「バルトネラ」菌という細菌への感染や、
体の免疫組織が脳を攻撃して起こる
「自己免疫性脳炎」その他が考えられる。

 

しかしながら、元々の冷酷無惨な性格を、
1日や2日ならともかく、数十年も、しかも
誰に対しても完全に隠し通せるものでしょうか?

 

どこかでポロリと本性が出てしまうので
はないてしょうか?

 

それを数十年も隠し通した
というあたり、豊臣秀吉という人物の
矛盾した人格の複雑さを感じてしまいます。

 

判断能力の衰えと、行動の論理性が失わ
れたことからは、加齢による認知症や
アルツハイマー病の可能性も考えられます。

 

ウイルスや細菌への感染は、資料がない
のでなんとも言えませんが、その確率は
少ないでしょう。

 

こうして見ますと、秀吉晩年の異常な行
動は、やはり認知症やアルツハイマー病
の可能性が最も高いように考えられます。

 

結び

三大戦国武将の、織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康ですが、最も人好きのする性
格の持ち主は秀吉でしょう。

 

しかし秀吉は、単純に「ひとたらし」な
どと一言で言えるような人ではなかったようなのです。

 

秀吉の性格は、天下を取る前と、その後
では同一人物とは思えない程激変しています。

 

その理由は、

元々そのような冷酷な性格だったことを
隠し、陽気で人なつこいようにみせかけていた。

 

統合失調症、あるいはアルツハイマー病などを患った。

 

細菌やウイルスに感染した。

 

などが考えられますが、総合的に考える
と、やはり統合失調症や認知症を患った
ためかと思われます。

 



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「捨て子のサウルス」です。 気張らず無理せず気ままに書き散らすつもりですので、お気軽に読んでくださいね。

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